慰霊の日に思うこと
引っ越してもう2か月が経とうとしている。
ある程度落ち着いたらオシャレ感満載の我が家の写真とか撮ってブログにも載せちゃおう☆などと画策していたけど、そもそもこれまでの人生において自分の家がオシャレだった試しがない。ましてや1歳児がいるおかげで、片付けるそばから散らかしてくれる賽の河原状態なのにいつオシャレが来てくれるの?
というわけでもうこれからはありのままにダサい感じでブログ更新していきたいと思いまーす。
さて本題。備忘録というか回顧録になってしまうけど、慰霊の日について。
タイミングとかだいぶ遅い気がするけどまあいいや。
慰霊の日というのは沖縄戦が終わったとされる1945年6月23日にちなんだ記念日。沖縄では公休日扱いとなります。
ゴールデンウイークが終わり、しばらくすると沖縄地方に梅雨が来る。
梅雨の時期が大嫌いだった。雨や湿度の問題ではない。
小学校の図書室が、沖縄戦の写真展示場となる。この時期だけは図書室に行かないようにしていた。
戦争の写真。たくさんの死体。生き残った人達の顔は悲しみよりも疲労が濃く、どこも見ていない目をしていたのを覚えている。
社会科の宿題はおじいおばあから沖縄戦の話を聞いて、戦争の悲惨さを学ぶというもの。
私の祖母は、戦争の話をしても面白くない、そもそも覚えていない。それよりも…と戦前の、祖母の若かりし日の思い出を聞かせてくれた。
祖父は戦死しているのでもちろん会った事はないけれど、祖母がよく話してくれたので(話の殆どがのろけ)、祖父を身近に感じる事が出来たしその死を悼む事ができた。
祖父が、兵隊さんが、あの頃の日本人が、あまりにも多くを犠牲にして築いた平和を大事にしなさい。戦争がどういうものかなんて知らなくていい。子どもは楽しい事をしなさい。いっぱい遊びなさい。
祖母はそう言うと、いつも決まって庭からヨモギをむしってジューサーにかけて私に飲ませた。ヨモギジュースは色が白くなるから!と言う祖母の目を盗んで、いつも流しに捨てていた。飲めないよ…
あれ、話がズレた。
慰霊の日が近付くと、私の小学校では沖縄戦について色々と授業があった。雨のように艦砲射撃がー手が腐ってーアメリカーに捕まるくらいならー
悲惨な写真やアニメ、語り部など駆使して戦争の恐ろしさを叩き込む。
ある日突然戦争が起きたらどうしよう、寝ている間に空襲があったらどうしよう。家族とバラバラになったらどうしよう。不安で夜も眠れなかった。
戦争を二度と繰り返さないように、歴史から学ぶのであれば、戦争に至った経緯をきちんと教えてほしかった。音楽の教科書の君が代のページに何の関係もないプリントを貼り付けさせ、君が代を教えないなんてことせずに、きちんと教えたうえで己の考えを示してほしかった。フェアじゃない。どう考えても愛情がゆえではない。教育にイデオロギーを持ち込まないでほしかった。
もう30年も前の事なので、私の記憶にもバイアスがかかっているかもしれないが、親になった今、我が子には強い洗脳のような、あんな教育は受けて欲しくない。アイデンティティの軸足を被害者意識においてほしくない。
もちろん戦争を肯定している訳ではない。
ちょっと大げさで支離滅裂になってしまった。
夫に小学校での沖縄戦の授業どう思ったかきいたら、普段の授業が潰れてラッキー、ですって。
私も慰霊の日学校休みだやったー!としか思ってなかったかも。
夜中の深い時間に書いて、そのまま寝ぼけてアップした模様。
読み直してみると、すごく普通の事をちょっとねっとりと書いてあるだけだけど、そのまま公開しておきます。
私が子どもだった頃の空気感や、戦争教育について思うことをライトに、でも真面目に書きたかったけど、筆力なく読み応えのないものになってしまいました。
沖縄で生まれ育った人間の、小さな一意見として読んで頂けたらと。
ひとつのエントリーではとても書ききれないので、また書こうと思います。